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ポピュリズムからナチズムへ橋下徹知事の政治手法はこれまでポピュリズムと言われてきた。かつての小泉首相と似ていた。しかし、政党「大阪維新の会」をつくり、会員を府議会等へ進出させ、その多数決論理をもって「君が代」起立条例や府議会議員定数削減条例を可決するあたりから、その手法はナチズムと違わなくなってきた。組合は、やがて消えていく知事ととらえて、その政治手法を批判してこなかったが、看過できる段階は過ぎた。橋下知事は「虎の尾を踏んだ」のである。今後は、容赦ない批判を行っていく。 ドイツの牧師であり反ナチス行動で知られるマルティン・ニーメラーによる詩『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』は、手遅れになる前に反ナチズムで立ち上がるように警告している。下記の『詩』の次の章句が来る前に、橋下政治を退場させよう。 −橋下が公務員を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、公務員でなかったから何もしなかった−
まず、橋下知事が労働法はもちろん、労働者あるいは資本主義について基礎的理解力がないことを批判する。そのために、彼のメールを見てみよう。
1.「教員は自由業ではない」−その主張にナチズムの影「橋下メール」の中に、次のフレーズがある。 教員も組織の一員であるという自覚がなさ過ぎる。 教員は自由業ではない。 自由業に就きたいのであれば、身分保障がないリスクを取るべき。 身分保障の中で、自分の好き放題にするなんていうのは、最悪です。 橋下知事は「教員は自由業でない」と声を大にして叫ぶ。その通り、誰も教員が自由業だと思っていない。特に、公立・私学を問わず「学校」の教員は自由業ではありえない。府教委が推し進めてきた教員の派遣あるいは偽装請負であっても、その教員は自由業ではない。また現在日本の教育制度において、株式会社が運営している学校は極少数だが、その株式会社立学校の教員も自由業ではない。 では教員は何なのか、それは労働者にほかならない。 橋下知事が「教員は自由業でない」と叫ぶのは、教員は自由業でないのだから上司の命令に従うべきだ、「君が代」は起立して斉唱すべきだといいたいからだ。しかし、労働者は上司の命令なら何でも従う義務があるのか。そんなことはありえない。 資本主義社会では、労働者は労働力を商品として雇用主に販売し、雇用主は購入したその労働力商品を時間を限って使用(消費)する。労働力を商品として販売できるためには労働者は雇用主から独立した自由な労働者でなければならない。自由な労働者とは、封建的な身分関係にはないということである。労働者と雇用主との関係が封建的な身分関係ではないとすれば、労働者は全人格的に雇用主に従属するものではない。だから、雇用契約(労働契約)では無限定な労働は禁止され、労働と余暇が区分される。同時に労働契約は、「労働者は、協約、法、ないし慣習によって定められた特定の仕事のためにのみ、彼らの時間を売るのであり、彼らの雇用主が勝手に決めたどんな仕事もしなければならぬ義務はないのだと言うことも意味する」(フランツ・ノイマン著「ビヒモス」294頁)のである。 ところが、この労働契約の自由あるいは自由な労働を廃棄しようとしたのがナチズムである。ナチズムは「労働力は商品でない」と主張して、「労働関係は名誉と誠実と保護とに依拠する共同体関係であって」「労働者は従属者として事業所の目的の推進と民族および国家の共同利益の達成のために一致協力して働く」ものとした(フランツ・ノイマン著「ビヒモス」358頁)。しかし、ナチズムであっても、資本主義においては労働契約を共同体理論で置き換える試みは失敗した(フランツ・ノイマン著「ビヒモス」359頁)。 橋下知事が資本主義を否定しないのであれば、労働契約の自由を認めなければならず、労働者は雇用主に身分的に従属しているのではないことを認めなければならない。教員も労働者なのだから、知事や教育長に従属するものではなく、上司といえども教員に不合理な職務命令を発する権限はない。それは、日本の法制度において、公務員であっても違法な職務命令には従う義務がないことからも言えることである。 橋下知事は、教員は自由業でないのだから「君が代」起立斉唱という上司の職務命令に従うべきであると主張しているが、教員は労働者なのだから、身分的従属関係に基づくような職務命令に従う義務はないのである。 橋下知事の「教員は自由業でない」との主張には、教員が労働者であることを否定する考えが見え隠れする。だから、その主張には、「自由な労働者」を否定したナチズムが重なるのである。 (山下恒生副執行委員長)
2.道徳律と法律−「君が代起立斉唱」はルールたりえない橋下知事は、「君が代」は起立して歌うのがルールだといい、ルールに従うべきだという。 しかし、この「ルール」の定義は微妙である。橋下知事はインタビューに答えて次のように言う。「学習指導要領で日の丸・君が代は『国旗・国歌だときちんと教えましょうとなっている。教育委員会が儀礼の所作として起立斉唱をやっていきましょうと決めたのに、不起立でもって自分の歴史観を子どもたちに伝えるのは言語道断。歴史観は一定のルールのもと、授業で教えればいい。」(朝日新聞2011年6月28日)。橋下知事の認識通り、起立斉唱は、教育委員会が決めた指示にすぎない。政府・文部科学省は、起立斉唱をルールにはしていない。 文科省が告示する学習指導要領は、卒業式等における「国旗・国歌」の扱いは次の通りである。 「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」 そして、国旗掲揚や国歌斉唱指導について文科省は具体的方法を示していない。このことについて、文科省は次のように説明している。 「国旗・国歌条項も含めて学習指導要領は大綱的基準を決めたもので、学校設置者の判断で適切に行うもの。具体的実施方法は明示していないので、地域によって差がある。」 以上の通り、国歌の起立斉唱をルールにしたものはどこにもない。「教育委員会が決めた」ことをもってルールというのであれば、それは大きな間違いである。このことはすでに上記「1.「教員は自由業ではない」−その主張にナチズムの影」で明らかにした。 つまり、橋下知事はどこでも決まっていないルールを持ち出してきて、これが守られていないという虚構を組み立てた上で、府条例という公的権力で「起立斉唱」というルールをつくったのである。 では、「起立条例」はルールとなったのか。確かに、府条例であるから法律ではないが、広く法令に含まれる。その意味で、罰則はなくても住民に規範を示して、これを守れという類いのものとなっている。 しかし、「国旗・国歌」や「君が代起立斉唱」といった住民の間で価値観の相違がある事柄について、法定化することが可能あるいは望ましいことなのか。この問題についてナチズムがどう対処したか、フランツ・ノイマンはその著書「ビヒモス」で次のように解説している。 一般的法律もまた倫理的機能を持つ。非常に逆説的なことではあるが、この倫理的機能は、適法性を道徳性からきびしく分離することにある。世上一般の人は、この分離を非難されるべきものとして、法律と道徳との相互浸透を理想として考えるであろう。それにもかかわらず、法律が社会調整の用具たることを可能にしているものは、まさしくこの分離にほかならない。 法律と道徳律の一致は、完全に同質的な社会においてのみ、たとえば、普遍的に承認されている価値体系によって支配されている宗教的集団において、維持されうる。 その場合には、法律は外的な行為だけでなく内的な信念をも規制しうる。 国民社会主義(ナチズム)は、法律の一般性を完全に破壊し、司法部の独立性と遡及性の禁止を打破する。 法律は総統の命令にほかならない (377頁〜379頁) ナチズムは、道徳的信念が衝突している社会において、道徳と法律を同一なものとすることで、価値観の相違を解消しようとしたのである。つまり、同じ価値観を持つ国民にまとめ上げていくのである。 橋下知事が「君が代は起立して歌うものだ」との価値観を持っているとして、そのことを法律で住民に押しつけ従わせることは、ナチズムが行った手法である。 民主主義は法律と道徳律の分離を求めている。「思想及び良心の自由」(日本国憲法19条)は、法律によっても侵してはならないのである。 (山下恒生副執行委員長)
3.郷土愛と愛国心−まやかしの地域主権「君が代起立条例」第一条は目的として、下記の通り定めた。 「この条例は、・・・府民、とりわけ次代を担う子どもが伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する意識の高揚に資するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと並びに府立学校及び府内の市町村立学校における服務規律の厳格化を図ることを目的とする。」 ここでは、「我が国と郷土を愛する意識」、つまり愛国心と郷土愛が同列に置かれている。 しかしいうまでもなく、愛国心と郷土愛は別物である。愛国心は国民国家が登場してその領内の住民を国民として育成するためのイデオロギーであるのに対して、郷土愛は住民が生まれ育ったあるいは現に住んでいる地域を愛する感情の発露である。もちろん住民が生まれ故郷を愛するか、現住所の地域を愛するか、はたまたどの地域も愛さないかは個人の感情によるところである。 愛国心は国民国家によって創られたイデオロギーであり、住民を国民につくり上げていくための思想である。国民国家が歴史的にヨーロッパに登場したのは15世紀以降であるが、資本主義の発展にともなって登場したものである。国民国家はそれまでに存在した「都市国家」や「帝国」に取って代わったのである。 「資本主義経済からの安定した税収入で暴力独占が容易になったため、国民国家は帝国や都市国家に勝った」(チャールズ・ティリー)のであり、「産業資本主義が中央集権的国家をもとめた」(アーネスト・ゲルナー)。 従って、国家は住民を統合するためにイデオロギーとしてのナショナリズムを必要とする。また、国民国家が登場したのが歴史的には新しく、その意味では絶対的なものではないのであるが、歴史の早いうちから存在したかのようにみせるために、歴史は書き換えられる。「国家が先にあって、ナショナリズムがつくられ」「伝統の創造」(ホブズボウム)が行われていくのである。このナショナリズムの極論が愛国心なのである。 愛国心が戦争と結びつきやすいのは、「戦争が国家をつくり、国家が戦争をつくる」(チャールズ・ティリー)からに他ならない。住民を国民につくり上げていくために、国民教育が行われるが、国民を統合するための手っ取り早い道具として国旗や国歌がつくられる。だから、「日の丸」は常に戦争の最前線に掲げられ、国民をまとめるために「君が代」が歌われる。 愛国心と国旗・国歌・国民教育との関係に対応するような、郷土愛に関係する「旗」「歌」「教育」は存在しない。それは、国民国家の創造過程で、地域(リージョン)が統合されたからである。しかし、統合は吸収ではないから、地域(リージョン)は消滅しておらず、住民の一番身近な共同体として存在している。住民の帰属意識(アイデンティティ)は、国民国家あるいはナショナリズムに統一されてはおらず、地域(リージョン)あるいは郷土愛がいまでも帰属意識(アイデンティティ)の上位にあることは国家も認めざるを得ない。 次の例は、人々のアイデンティティが国民国家やナショナリズムに統一されないことを物語る。 「イボ族は・・ナイジェリアの東部だった地域ではオワリ・イボとかオニチャ・イボと区別されるかもしれない。だが首都ラゴスに行けば、彼はイボ族にすぎない。ロンドンではナイジェリア人と言われる。ニューヨークではアフリカ人と言われる」(Donald L. Horowitz. Ethnic Conflict Management for Policy Makers” in サミュエル・ハンチントン「文明の衝突」94頁)。 「1990-91年及び1995-97年にヨーロッパで実施された世界価値調査からピッパ・ノリスは人々の帰属意識を次のように分析した。15%はヨーロッパ(あるいは世界)であり、38%は国(あるいは民族)であり、47%は地域(リージョン)であると思っている」(Manuel Castells, The Power of Identity, p.335)。 国家は、その脆弱な基盤を補強するために、常に地域(リージョン)を利用する。郷土愛と愛国心を同一のものであるかのように宣伝するのもその一つである。そしてできる限り、国家と住民との間に存在する中間物を排除しようとする。その強力な中間物の一つが地域(リージョン)なのである。 ナチズムの場合はどうか。 「国民社会主義(ナチズム)の社会組織化の第一原理は、多元的原理を一元的、全体的、権力主義的組織にとってかわることである。」「第二の原理は個人のアトム化である。」「社会の自然的構造は分解され、抽象的な『民族共同体』にとってかわられる」(フランツ・ノイマン著「ビヒモス」344頁)。 ナチズムは、個人を社会的集団から切り離し、一人一人をばらばらにして、国家に直接帰属させようとした。若者たちは直接にヒトラー・ユーゲントに組織された。その代わりに国家と国民の間にある中間物は取り除かれた。そのなかには労働組合があり、教会があった。 橋下知事の「君が代起立」条例は、郷土愛と愛国心を混同させる意識を高揚させるのであるが、その底流には多元的原理の否定、一元的・全体的組織化原理の危険性が潜んでいる。 橋下知事の唱える「地域主権」は、「国家主権」の補完物でしかなく、「地方分権」ですらないのである。また橋下知事は「道州制」にも関心があるようだが、中央集権国家の地方機関を強化することにしかならないことは明らかだ。それが今回の「君が代起立」条例制定から見えてきたことだ。 (山下恒生副執行委員長)
4.国家(行政)と教育−教育への政治介入の愚かしさ「君が代起立」条例につづいて、橋下知事率いる大阪維新の会は、9月府議会に「教育基本条例案」と「職員基本条例案」を提案する。その素案が公表された。成案になった段階で全面的な検討を加えるとして、素案の基本的姿勢である「政治が教育に介入する」ことの問題点を見ておく。 国家が国民育成のために「国民教育」を行うことは、上記3.で述べた通りである。 「19世紀から20世紀にかけての学問論および学問の体系は、国家を形成するという課題にそって集中的につくりあげられてきた」(濱下武志)のであり、「現在の社会科学が、1国に基礎をおく、国家の政策に役立つ学問となった」(ウォーラーステイン)のである。国民育成のための教育は義務教育となるのである。 ところで、学問は国家から自立していなければならない。なぜなら学問は、真理の探究であり、時として国家と対立するからである。また、国家(国民国家)は歴史的なものであることから、国家(国民国家)に代わる「共同体」や「政治単位」が登場することになり、「国学」とは異なる学問が発展することが考えられる。それは国家を否定する学問や学問体系である。 学問の自由とは、国家からの自由を意味する。ヨーロッパでは、国家(国民国家)が建設される前から大学が存在していた故に、学問の自由が国家からの自由を意味することはわかりやすい。 国家といえども、学問の自由を制約することはできない。 ましてや、時の政府が学問の自由を侵害することなどは論外である。このことは、日本における教育委員会制度発足の歴史的経緯から明らかである。すなわち、戦前の政府(及び任命制知事)が、「教育勅語」を基本にした「皇民化教育」によって子どもたちから科学的思考を遠ざけ、愛国心を植え付け侵略戦争に追いやった反省から、戦後教育は首長から独立して教育施策を担当する教育委員会が設けられ、教育委員は公選制となったのであった。 いま、橋下知事と大阪維新の会がやろうとしているのは、時の政府による教育への介入である。橋下知事は、「選挙で選ばれた首長が教育に関与する」ことが民意の反映であるという。しかし、橋下知事と大阪維新の会所属議員が選挙で選ばれたとしても、彼らは「君が代起立条例」や「教育基本条例を」をつくるというマニフェストを出していなかったのであるから、今回の条例制定が民意の反映とは言えない。ましてや、教育への政治介入政策を実行するなどということは、全く民意を反映したものではない。 次に、橋下知事、大阪維新の会所属議員は選挙で選ばれたというが、有権者の過半数から支持されたわけではない。橋下知事が選ばれた知事選挙は投票率が48.95%に過ぎず、橋下知事の得票数は有権者の1/4程度であった。大阪維新の会所属議員も有権者の過半数を得票したものではない。この程度の得票で、「民意」を反映するとは、傲慢も甚だしい。もっとも、橋下知事は民意とコンセンサスは意味が違うことぐらいはご存じだろうが。 さらに言えば、仮に民意があったとしても、時の政府や首長が教育に介入してはならないのである。例えば、2005年アメリカのカンザス州では選挙で選ばれた委員が、神が人間を創ったとする「天地創造説」を、それまでのダーウィン進化論に代えて教える決定を行った。これなど選挙による民意の反映であろうが、民意によって真理や科学は追放される結果となっている。その後、カンザス州は進化論教科書に戻ったというが、翻弄されたのは学問と子どもたちである。真理や科学が否定されることは許されない。 今、橋下知事が政治介入してやろうとする教育は、「愛国心と郷土を愛する心」(教育基本条例案)を育てるものであり、「教育は2万パーセント強制です」(橋下twitter)というものである。どこに学問の自由が保障されているのか。橋下知事による教育への政治介入は、人類と社会の進歩を冒涜するものである。 (山下恒生副執行委員長)
5. 教育基本条例案批判−内容と狙いと背景橋下知事が率いる大阪維新の会が、府議会に「教育基本条例案」「職員基本条例案」を提出した。これらの条例案は、地方公務員法28条、29条で分限処分と懲戒処分の手続と効果について条例に定めることを求められていることを受けたものである。大阪府には、分限処分条例や懲戒処分条例は現に存在しているから、あらためて制定する必要はない。 ところが、橋下知事は、「教育基本条例案」「職員基本条例案」などと大げさな名前を付けて、世間の注目を引くことを狙って提案した。とはいえ、できあがった条例案は、地公法が求める処分条例とは異なり、その意味でも法律の枠を超えたものとなっている。教育基本条例案は教職員に適用することになるが、学校現場以外の大阪府職員にも同様の条例を適用することが必要なことから、「職員基本条例案」が出されてきたのである。 従って、ここでは「教育基本条例案」を批判することで十分であろう。 「教育基本条例案」 1.内容 (1) 政治家が教育に介入できる−・選挙を通じて民意を代表する議会や首長の力が教育行政に及ぶ (前文)・知事が学校が実現すべき目標を設定する(6条) (2) 目標実現のための組織体制 −・教育委員会・校長・教員・職員が目標の具体化をおこなう(7.8.9条)。 (3) 組織を運営する人事−・教育委員は、知事が罷免できる ・校長・副校長は、任期制・公募制 ・教員は、職務命令服従と評価査定の人事・給与に反映する。職務命令3回違反で免職(標準)、D評価2年連続で免職可能(10条〜42条)。 (4) 学校制度の改変−高校学区制廃止。3年連続定員割れで閉校。 2.狙い (1)政治主導・政治家の思想による教育−・独立・中立性をうたった戦後教育委員会制度の否定→学問の自由の否定へ ・時の政権・政治家の意向に沿った教育で子どもの育成。政治家が教育に介入するとどうなるか、上記4.に記述したとおり。橋下知事の教育観は「教育とは2万%強制です」。 (2) 公務員制度の改悪 −・忠誠義務(忠実義務)の導入(条例9条)←職務専念義務(公務員法) ・異端者の排除 ・「都構想に賛同する大阪市職員を抜擢する」→猟官主義に発展 (3) 教育・自治体の民営化−・民間手法の導入(民間公募校長) ・公立学校法人化(40条) 3.背景と問題点 (1) 失業と失望の時代−・少しゆとりがある公務員を攻撃ターゲットにして、非正規・失業の若者の惹きつけ (2) 選民思想−・「選挙で選ばれた民」という優性思想 (3) 地域主権のまやかし−・国家教育、「国旗」「国歌」「愛国心」「自己責任論」(条例2条) (4) 民間手法導入の間違い−・利潤追求が企業の本質であり、競争に負けないために違法行為が蔓延 ・民間校長導入の矛盾、すなわち府の財政危機は法人2税の減収=企業が利益をあげられないから、その企業でお払い箱になった管理職を校長に登用する ・自治体は利潤追求をする団体ではない ・橋下知事になってから府の借金(府債)残高が2,500億円も増えている(大阪府HP)。 これらの条例案は法律に違反する疑いも強く、学者・文化人など各方面はもちろんのこと、府教育委員や府庁内部からも批判が相次いでいる。しかし、臆面もなく提案して、知事・市長W選挙の争点にまでするのが橋下知事だ。ただ、橋下知事の支持率は低落していないといわれる。その橋下政治は、マスコミを操った宣伝戦や、大言壮語で、失業・失望状態にある民衆の期待感を醸成する手法を採り、ヒトラー・ファシズムと酷似していることからハシズムと言われている。 教育基本条例案・職員基本条例案を廃案にするには、橋下政治(ハシズム)を終わらせる必要がある。 (山下恒生副執行委員長) 6.ストップ!橋下政治(ハシズム)
非常勤教員が賃下げ無効で提訴(08/11)橋下知事は労働基準法を守れ08年11月28日、橋下リストラ案による賃下げが労働基準法に違反しているとして、非常勤特嘱員たち17名が大阪地裁に提訴した。最終弁論(10/2/3) 争点はシンプル原告・被告から最終準備書面が提出された。 結局争点は簡単なもので、労基法93条が適用になるか否かである。非常勤職員には労基法が全面適用となるのであるから、大阪府が93条に違反して、就業規則にある賃金を一方的に引き下げたのだから、これは無効というほかない。裁判所もこればかりは否定できないであろう。 判決は10年4月26日(月)13時10分から言い渡される。
請求棄却の不当判決−橋下に逆らえない裁判所 (10/4/26)4月26日に判決が出た。争点の一つであった労基法93条が特別職地方公務員に適用されるかについて、判決は、特嘱等の「要綱」が就業規則に当たり「要綱」では雇用期間が1年間と定められていることについては認めたものの、特嘱等は労働契約ではなく「任用」だから、労基法93条は適用除外され、就業規則を下まわる4ヶ月任用期間でも違法ではないと判断した。労基法や労組法も「任用」関係に反しない限り適用されるとの判断であった。 このような判断だと、特嘱や非常勤講師などは、府教委の都合で、いつでも賃金が下げられ、雇用期間も短縮できることになる。規程も要綱も必要なくなる。裁判所による「法の支配」の否定であり、無法状態の容認である。そもそも労基法(その全身である工場法)や就業規則がなぜ生まれたのかについて認識不足を露呈した判決であった。 橋下リストラ攻撃を許さないたたかいは、控訴を含めて新たな段階に入る。
不当判決に控訴でたたかう(10/5/10)地裁の判決は、違法・不当なものであり、到底受け入れられない。このような判決がまかり通れば、特別職公務員はおしなべて「奴隷」状態に追い込まれる。組合と原告は控訴した。 高裁も不当判決11年3月26日、大阪高裁は控訴を棄却した。地裁判決よりも悪い内容で、明らかに憲法に反する判決であった。 判決文 最高裁に上告原告は、直ちに上告を行った。 上告理由書
府・府教委の団交拒否で申立(10/6/1)10年6月1日、組合は府・府教委の団交拒否等が不当労働行為であると大阪府労委に救済し申し立てた。 非常勤講師・臨時講師は毎年解雇と雇用を繰り返されている。組合は、雇用の安定化を求めて、20年来闘いに取り組んできた。その成果として、ここ10数年は府・府教委との団交で解雇阻止・雇用継続を勝ちとってきた。しかし、09年度になると、府教委担当者の姿勢が変わり、この件に関しての団交を拒否する態度に出てきた。「前任者が間違っていた」と言うのである。 こうした態度は、橋下知事の反組合的政策を反映したものである。組合は、抗議行動をするとともに、この度、府労委に救済を申し立てた。
組合と府・府教委が主張を展開●組合 最新の中労委命令も引用 ●労働基本権を完全に否定した府・府教委 府準備書面(4) 証人尋問へ双方が主張を終えたため、証人尋問が開始される。府・府教委の証人の一人は林補佐である。今回は容赦ない質問が浴びせられるであろう。 双方主尋問−10.12.15 双方反対尋問−11.1.24 証人尋問が終了し、命令待ちへ 第2回審問速記録 (府教委証人追い詰められる)
最終陳述書提出(11.3.25)
府労委が不当な命令−橋下知事に逆らえず(11.7.25) 11年7月25日、府労委は請求を棄却する命令を出した。その主旨は、非常勤講師らの次年度契約(任用)更新は、新規採用に当たるから、採用についての要求は義務的団交事項ではないというものである。 しかし、同じ府労委は、大阪市の非常勤職員の次年度雇用(任用)要求については義務的団交事項として、大阪市長に団交に応じるように命令を出した。 この違いは何か。平松市長には命令を出すが、自らの任命権者である橋下知事には逆らえないということか。もしそうであるなら、司法、労働委員会の「死」である。ヒトラーの前に最高裁が屈服した歴史が繰り返されるのか。
中労委に再審査申立(11.8.2) 11年8月2日、組合は当然ながら中労委に再審査を申し立てた。粗雑・非論理的な府労委の判断を一刻も早く取り消さなければならない。 --------------------------------------------- 橋下知事 またしても団交拒否 2011年度に向けての講師雇止め反対・継続雇用要求を求める団交を、府・府教委はまたしても拒否した。労働組合の団体交渉権を否定する、ヒトラー流の論理は、橋下知事のポピュリズムの本質を現している。 組合は、不当労働行為の救済を求めて、府労委に申立をおこなった。 府・府教委は答弁書を提出してきたが、相変わらず非論理的かつ時代遅れの主張である。 組合は、答弁書を批判する準備書面を提出した。 府・府教委は前回事件とおなじ書面を提出してきた。
橋下知事・府教委が10年度労働条件団交を拒否従前から団交拒否を続ける橋下知事・府教委だが、ついに「労働条件」交渉までも拒否するに至った。組合は、府労委に「団交促進あっせん」を申請したが、府労委のあっせんも断って団交拒否を貫いている。組合は、不当労働行為の救済を申し立てた。 府労委に救済申立(11年6月) 府・府教委が答弁書−いつも通りカビの生えたリクツ(11年7月) 組合と府が準備書面(11年8月) 組合と府は準備書面を提出した。府の準備書面は、結局のところ、非常勤職員等の労働条件にかかる交渉も地公法によるものだから、それを拒否しても不当労働行為にならないというものである。橋下知事の法律家としての資質が疑われる。 交渉参加者名簿を事前提出しないことを理由に団交拒否は不当労働行為−最終陳述書を提出(12/5/14)
教職員エコ評価訴訟を提訴 (08/1/31)08年1月31日、府立高、府内小中学校教職員7名は、校長のえこひいきによる評価を違法として、損害賠償を訴える訴訟を大阪地裁に提訴した。その概要は以下の通り。 1.訴訟3件 (1) 原告 ・府立高校教員1名 被告 ・府立学校校長1名及び大阪府 (2) 原告 ・吹田市立中学校教員1名及び吹田市立小学校事務職員 1名 被告 ・吹田市立中学校校長1名及び吹田市立小学校校長1名及び吹田市 (3) 原告 ・門真市立中学校教員 4名 被告 ・門真市立中学校校長2名及び門真市 2.請求の趣旨 被告らは、原告の評価をB評価としたため、A評価であったとしたら支給されていたであろう勤勉手当(及び昇給額)との間に損害を生じさせた。また、原告はB評価をされたことにより精神的損害を被った。A評価との差額損害額、精神的損害への慰謝料を請求する 3.提訴に至る動機及び経過 ・学校教育は教職員の協働で成り立っている ・この協働性を無視して、教職員の評価に格差をつけることは馴染まない ・「評価・育成システム」は育成に重点をおいて制定されたシステムであり、評価は育 成の観点からなされるもの ・本システムを利用して、地公法40条の「勤務評定」を行うことは適切でない。ましてや、本システムの評価結果を賃金に反映することは、教職員の協働としての学校教育に支障を来す ・本システムでは、校長(評価者)の評価が絶対評価され、そのまま昇給やボーナスに反映される、従って、校長は本システムにそって評価を行うとしても、教職員の協働性に着目して、公正評価を行うべきだ ・上記のことについて、所属組合を通して府教委・市教委と交渉を行ったが、教委は校長が適正に評価するはずと言うだけ ・ところが被告校長らは、「評価のための評価」を行い、原告をB評価とした ・B評価は「勤務成績が良好である職員」とされるが、勤勉手当は従前に比べて減額される ・校長は、勤勉手当が減額されることを承知の上で、原告をB評価とした、校長によっては評価結果を原告に通知しなかった者もいる ・原告は苦情申出を行ったが、苦情審査会は「評価妥当」とした。評価結果を知らされていない原告は苦情申出の機会も奪われた ・そこで裁判所に訴えるしかない ※エコ評価訴訟とは、校長の「エコひいき評価」を許さない訴訟 最終準備書面を提出して結審(09/11/18)−判決は10年3月17日原告・被告は最終準備書面を提出した。しかし、門真事件で被告は、原告最終準備書面が出た後から、これを批判するために追加準備書面を出してきた。後出しジャンケン!とはこのことだ。 また被告は、原告が自己申告票を出していない年度があったことをとらえて、「原告は適正な評価を求めていない」と言う。評価・育成システムを自ら否定する見解である。校長たちが、独自の評価基準を作っていたことも含め、このシステムが機能不全に陥っていることが明らかになった最終準備書面である。判決が期待される。 府立学校関係 原告準備書面 vs 被告大阪府準備書面+被告校長準備書面 門真市関係 原告準備書面 vs 被告門真市準備書面+同追加書面+被告校長準備書面+同追加書面 大阪地裁が不当判決−校長の評価は裁量権の逸脱ではない10年3月17日、大阪地方裁判所は原告7名の訴えを棄却 した。 棄却理由は、評価システムが府教委の裁量権の範囲であり、賃金が下 がることは地方自治体が決定すべきことで校長の責任はない、各原告に 対する校長の業績評価、能力評価、総合評価に裁量権の逸脱はなかった とするもの。府教委が2008年9月に市町村教委に対し「S・A評 価の割合が年々増加し『評価の寛大化』傾向が見られ、5割を超えると 危惧している」とする文書を出したことについて、裁判所は「Sや等の範囲について一定の確定的な数値を示すことはそれらの評価が絶評価であることに疑念を抱かせる可能性がある。」と指摘している。 原告の訴えが認められなかったことは残念だが、校長が不当な評価 を行ったかどうかを裁判で明らかにしていく、ひとつの道筋がつけられた。またこの裁判を通して、校長の行った評価を検証する中で、よりいっ そいう評価基準の不透明さが明らかになった。システム運用と校長による評価を、徹底的にチェックする取り組みが必要である。
橋下知事によるリストラ解雇、府民生活切り捨て、大阪破壊はがむしゃらにすすめられている。組合は、ストライキを含めて反撃を組んできた。08・7・15ストライキまでの経過及び関連する訴訟等の経過はこちらへ |
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